それ以後

P1240358 応募した作品が授賞して小説家デビューをはたしてホッとしていると、こう言われることが多い。
「次作は続編を……」
 これは担当編集者のきまり文句のようなもので、もちろん新人作家としたら否応もないものだ。はい、わかりました、とうなずいてしまうのだが、こうして小説書きとしての産みの苦しみをはじめて味わうことになる。

 それ以前、つまりデビュー以前にも、当然小説は書いていた。私の場合、書いて書いて書きまくっていた、といったほうが正確で、書いては応募、書き直しては応募の日々。それこそ手当たりしだいで、すべて記憶しているわけではないが、30回ぐらいの応募はまちがいない。
 あまりの落選つづきに、やはり書き方のイロハを習うべきか、と思い立って小説教室に通ったことは別の話だが、応募したなかで4作品が最終候補作にのこり、2つの作品が授賞できた。言ってみれば30戦26敗2引き分け2勝ということになるが、これが好成績なのかどうかわからない。すくなくとも幸運だったといまでは思っている。

 そうしたころは書いても書いても次の作品が思いうかんだものだし、思いうかべるくらいだからある種の予備知識があり、書くべきとっかかりが、すでに頭の中に出来ていたように思う。ところが「続編を……」となるとそうはいかない。まっ暗闇の手探り状態。頼りになるのは第一作ということで、となれば当然のことに「それ以後」を求めて調べまくることになる。

 坂本龍馬を書くため高知市におもむいた高名な作家は、市中すべての古本屋を呼びよせ、買い集めたトラック1台(貨車1両とも)の資史料を書斎に送らせた。はたまたある作家は、切支丹史料を探しに神田神保町の古本屋を訪れたさい、必要な史料を購入したあと、ふと考えて「棚にある史料のすべてを購入」。これで他の人が書けなくなるからゆっくり執筆できると考えた。
 そんな話がまことしやかに語られているが、乗用車1台分にちかいわが身の古本漁りぶりを思い起こせば身につまされるし、あってもふしぎじゃないと思われてくる。

P1240333 なんにしても第一作『本多の狐』は、主人公が吉利支丹とともに天草に向かって終わった。その続編となれば、島原の乱から調べるのが順当だったろうが、なぜか遠く離れた東北仙台を舞台とした「それ以後」になっている。どこでどうなってそんな物語になったか、いまとなってはまるで覚えていない。
 ただ「あとがき」に、三万余の信徒が死んだ島原の乱は、ローマ法王庁において殉教と認められていないこと。さらに乱終結の翌年から翌々年、仙台領大籠村で信徒処刑が起こっていて、これを東洋キリスト教最大の殉教とされたことに書きふれている。おそらくこの史実に触発されて考えついたのだろう。

 そう言えば仙台藩の重臣片倉家の一人として登場する片倉久米介は、おどろいたことに真田信繁(幸村)の遺児とされている。むろん大坂落城のさい、片倉家当主が養育を託されたという史実があってのことで、それを書いた当時は、いわゆる意外史に属したものだった。それがいまとなってはネットに多くの記述があり、簡単に参照できるのがまたおどろきだが、今年の大河ドラマ「真田丸」で片倉久米介のエピソードが語られるかはわからない。

A3 竜の見た夢

縦か、横か

 猫の瞳が明るいところで縦に細長くなることはよく知られている。樹上生活を長くつづけたネコ科の特徴とばかり思っていたが、そうとも言えないらしい。ネコ科の動物すべてが縦長の瞳というわけではなく、同じように樹上生活を送るヒョウも縦長ではない。反対にイヌ科でありながら狐は縦長の瞳を持っている。
 進化とは関係ないのか、と思うものの、イヌ科やネコ科の祖先は、ともにネコ目(食肉目)のミアキスという樹上生活動物だったと考えられているから、そのころの特徴が猫や狐に残ったという可能性もあるだろう。

 山羊の瞳は横長だ。羊、馬、牛、鹿などの草食動物は、ほとんど横長の瞳を持っているようで、草原などで生活し、肉食動物を早く見つけるために広い視野が必要だったからとされている。
 驚いたことに鯨も横長らしい。祖先は陸上生活をしていて、生物学的にはウシ目(偶蹄類)に分類される。すると鯨と山羊は親類になるわけだ。

P1240311-b そう言えば私には、横長の瞳を水平線になぞらえて「山羊の眼のなかに海がある」と書き出した作品(『黒船の密約』)があるが、この話になると長くなる。いずれ電子書籍化するときの話題として本題にもどりたい。

 じつはこのところ、縦か横かで少しばかり悩んだ。いや、瞳にはまったく関係はなく、横書きか、やはり縦書きかという問題だ。つまり小説の執筆は、当然のように縦書きだったが、このブログサイトを立ち上げるさい、縦書きにするか、横書きかでかなり考えたのだ。
 ブログサイトにかぎらず、多くのネット表示は横書きだろう。これが少しばかり読みにくい。1行の字数があまりに多いと、他の行に視線がずれてしまうのだ。小説などの縦書きでは、1行40字以上で印刷されるが、隣の行に視線が移るようなことはほとんどない。視線が上下移動しても揺るがないわけだ。

 こうした傾向は私だけではないようだ。たとえばネットなどの横書き文章では、1行空けが多用される。ときには半行分の空白をはさみ、1センテンスごとに文章を区切って表示するわけで、これによってずいぶんと読みやすくなる。新聞などの縦書き文章などでは見られない形態で、おそらくは左右移動のさいの視線のずれを防ぐ、自然発生的な工夫だろうと思われる。P1240304
 そして欧文の文章には1行空けがあまり使われない。かれらは視線の左右移動に強いのだろう。横書き人種と縦書き人種にはそんな違いがある。

 そもそも文字を縦書きにするか、横書きにするかは、だれがどう決めたのだろうか。当然、視線の左右移動に強ければ横に書くだろうし、上下移動に慣れていれば縦に書いたりするかもしれない。もしそうであるなら生活形態が文字の書き方に影響したことになり、猫や山羊の瞳の形の違いが、樹上生活や草原暮しの名残だったと同じように考えられるわけだ。

 ひろびろとした草原で獲物を追いつづける狩猟民族は、日ごろから視線の横移動に鍛えられた結果、横に文字を書くようになった。一方、作物の種をまき、発芽した苗が上へ上へと伸びるのを、じっと見つめつづけた農耕民族は、文字の縦書きを採用するようになった。

 こんな仮説が成り立つのではないか。実に面白く、これが真説ではないか、と私は思っているのだが……。

木割り狐

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 机にむかうのに飽き飽きしていた。東京住いのころだったら、そのまま放り出していただろう。だとすると『本多の狐』という小説は生まれなかったに違いない。

「やりたいことしかやらない」と、すべてを清算して田舎暮らしを選んだとき、「やると決めたら必ずやる」と自分に誓った。執筆に行き詰まったからといって途中で放り出すわけにはいかない。今までの私とは違うのだ、とまで思い詰めていたかどうかは忘れたが、すこし息抜きしようと東北の角館に出かけた。あるいは取材だったか、とにかく26,7年前の桜の時期だった。

 武家屋敷で一人の老人が〔狐〕を削っている。多分、観光のため町から依託された老人クラブの仕事らしく、イタヤカエデの丸木を幾つかに割り、小刀でさくさく削って顔をつくる。それだけの素朴な〔狐〕だが(正式な名前はなかったと記憶している。木割り狐と命名した)、一目見て背筋がずずんときた。これだとおもった。
 漂泊の民サンカの人々が伝えたという郷土玩具だが、何といっても表情がいい。胸をこころもち張った感じの立ち姿に、ツンと尖らせた鼻。とぼけて愛らしく、野性的ながら気品さえ感じさせる。そんな表情は、私が求めていた「本多の狐」のイメージそのものだった。
──中略──
 あとはもう、頭の中で〔狐〕が跳び回るばかり。史料をくわえてくるかと思えば、逸話にとび跳ね、子狐のかわりにエピソードをつぎつぎと産み出す。跳ねとぶ〔狐〕の足跡を辿れば自然と物語が出来てくる。そんな感じだった。しかし、なんとも奔放な〔狐〕であったため、寝ていても夢の中で跳び回る。これには少々閉口したが、書き上げたとき七百枚に近く、削りに削って五百枚にした。今になって考えてみればよくも書いたもので、ひょっとして〔狐〕に憑かれていたのかしらん、と思われてくる。(『本多の狐』あとがきより)

 長編を書きはじめて間もないころだったし、加えて発行される見込みもない応募作品ということもある。遅々として書き進まない作品だったが、日光に帰ってから嘘のように書きすすんだ記憶があり、さいわいにも時代小説大賞を受賞して、私の実質デビュー作となった。
 その作品を電子書籍化するなど、当時は考えもしなかったが、それにしても30年近く前である。そのころ使っていたワープロ機は、当然のようにフロッピーディスク使用で、しかも5.25インチ型というから、いまとなっては保存データーも取り出せない。もちろん専門業者や発行元に依頼するという方法もあるが、コストの発生やら面倒な交渉を嫌って、手持ちのスキャナーによる原稿起こしを選んだ。
P1240273 しかしスキャナーも古く、Win10には未対応ときている。いろいろ試行錯誤した結果、winXPをインストールしたノートPCでスキャンし、スキャン機対応のOASYSファイルを作成したあと、一太郞、Word、EPUBとファイル変換させる、という作業工程を踏むことになった。他にもやりようがあるのかもしれないが、私にはこの方法しか考えつかなかった。

 そんなこんなの苦労のあとに読み返すわけだが、予想したようにその拙さに目を覆い、苦笑の連続ということになる。それでもときとして、よし、とうなずいたり、ぽん、と膝を打ったりする箇所がないではない。どこかに置き忘れてしまった推進力と飛躍力で物語を動かしている、とわがことながら羨ましく感じ、やはりな、と反省したりもする。
 反省力に欠ける私にとっては、それもまた電子書籍化の効用のひとつということになるのだろうか。

本多の狐

涙をふいて……。

「涙をふいて」……と歌い出してから、うむむ、とうめいた。あとの歌詞がどうしても出てこない。ま、忘れっぽくなっているからめずらしいことではなく、いつものように奥さんに聞いてみたところ「古いわね」と言ったきり、はきとした答えは返ってこない。どうやらご同病の健忘症であるらしい。
 最近は「検索」という手があるから、さしたる問題ではないが、それがまた症状を悪化させているような気もする。その「検索」にやや手間取ったのは、「涙をふいて」が歌い出しだとばかり思っていたからで、サビの部分と知れてようやく判明。かれこれ30年以上前に流行った曲のようで、CMソングに採用されて一躍ヒットした、という話は今日の主題ではない。

「涙をふいて雪国へ」とつづけたい。やはり歌か、と思われるむきもあろうけれど、いやいや、前回、途中になってしまったカメラ分解を話題にしたいのだ。
DSCF0498-B いま使っているデジタルカメラは、レンズまわりの傷をみてもわかるように、ブログを10年近くつづけている奥さんのお下がりだ。カメラマンだったころのフィルムカメラは、機械仕掛けの光学製品だったが、こいつは電機メーカー製。つまりは電機製品ということになるのだろうか。
P1240023 レンズの蓋が自動で閉まらなかったが、精密ドライバーで軽く叩いたらなおってしまった。(そう、電機製品は故障したら叩くにかぎるのです)しかし、いつごろからか黒っぽい影が映りこむようになり、このままではどうにも使えない。おそらくレンズの奧か、センサーに埃が付着しているのだろう。となれば「やはり分解掃除」するしかない。

 古いフイルムカメラなら分解したことがある。ながく使い込んでくると、レンズの絞りまわりに油や水分がにじむことがある。カメラの絞りは、目の虹彩に相当する。そこでにじんだ液体を「涙」と呼ぶわけで、低温時に凝固してしまうと、自動絞りが効かなくなり、極端な露出オーバーとなってしまう。そのため雪国ロケなどの前には、動作を点検し、ときには分解して「涙をふいて」おかねばならない。
 ほとんどの場合は専門の技術者に依頼するが、急ぎのときやロケ先となるとそうはいかず、素人ながら自分で分解掃除したことが何度もある。
 ならば出来ないわけはなかろう、と多寡をくくってしまうのが、数ある私のわるい癖のひとつ。ときには失敗して「涙をふいて」あきらめたことが何度もあるのだが……。

DSCF9889-b 電機製品であるからして、バッテリーを外すのがまずは第一。ついで底面のネジ3本、左右側面のネジ3本を外すと、前後パネルと上部軍艦部が外せる。

DSCF9892-b 液晶パネルを横にずらすようにして起こすが、倒れないよう何かに立てかけておくとよい。4本のネジを外して、金属カバーを取り外す。

DSCF9894-d この部分のネジ3本を外すと、センサー部が起こせる。

DSCF9896

 ピンセットを使って慎重に裏返すと、やはり埃がかなり付着していた。おそらくは山羊餌の乾草だろう。軍手と一緒にポケットに入れているようだから、埃だらけになるのも無理はない。

 綿棒で拭き取ると、傷つける心配があるので、ブロアで吹飛ばすのが安全。もちろん息を吹きかけたりすれば、水分が付着したり、唾が飛ぶこともあるので注意が必要。あとは元通りに組み上げて、およそ30分で終了した
 結果は良好。このブログの(今回以外の)写真はもちろん、電子書籍の表紙の多くは、このデジカメで撮影したものを使用している。

わるい癖……。

 古い仕事道具を探しに屋根裏にのぼった。なにしろ25年ほど前に辞めてしまっているから、むろん仕事に使うわけではない。このブログの話題にデジタルカメラを取りあげるつもりで、その導入写真として掲載したいと思ったのだが、どこをどうひっくり返しても見つからない。探しているのはカメラ機材だ。

P1240263-B 屋根裏には、書斎に設置した折りたたみ階段を引き下げてのぼる。銀色に光る太いダクトが天井に据え付けられているが、これは屋根から熱い空気を取り入れて暖房や給湯に利用するOMソーラーの設備で、20数年前にこの家を造ったとき導入したものだ。もちろんセルフビルドだったが、そのとき私は他の工事にかかりきりで、ダクトを持ち上げるのに手を貸したぐらい。主な設置作業は建築家と奥さんがやってくれた、というくわしい経緯はつぎの機会にお話しよう。とにかくカメラ機材だ。

 カメラマン時代の私は、さほど機材を持っている方ではなかった。主にはニコンFと6×6フイルムのゼンザブロニカを使い、ときおり4×5インチのシートフイルムで撮影する大判カメラ(トヨビュー)を使うぐらいだった。
 そのほかニコンFやゼンザブロニカ用の水中ハウジングを自作したりもしたが、そのころ(40年ほど前)に撮った水中写真はほとんど売れずじまいだった。この話もいずれということにしておくが、そうした水中機材や大判カメラ、ストロボや細々としたアクセサリー機材は見つかったが、肝心の小型カメラと交換レンズ類がどこにもない。
 結局、他の場所を探すことにしたが、代わりにちょっと面白いものをみつけた。

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 セコニック製のスタジオタイプと呼ばれた露出計で、被写体に入ってくる光の強さを測定する入射光式。あらかじめASA(アメリカ標準規格のフイルム感度)を設定しておき、針が振れた数字にダイアルをあわせると、別枠にシャッタースピードと絞りの組み合わせが表示され、それによって露出を決定する。
 つまり露出は、シャッターのスピードと絞りの開閉ぐあいでフイルムに届く光を調節するわけで、適切な組み合わせは幾通りもあり、撮影者の表現方法よって選択する。フイルムカメラ時代の撮影は、かように面倒な手順を必要とし、むろんピント調節や構図の良しが出来映えに関係してくるのだが、いまのデジタル時代では単なる語りぐさだろう。とにかくシャッターボタンを押しさえすれば「はい、出来上がり」で、現像処理さえもない。

 そうそう、現像だ。一度、三日ほどかけたロケフィルムを現像所の事故でおシャカにしたことがある。白黒フィルムならともかく、カラー現像となると個人の手には負えず、ほとんどの場合、専門の現像所に依頼する。ところが現像に失敗した。停電があり、おまけに自家発電装置も故障というダブル事故だったと聞かされ、むろん平謝りに謝られたが、損害賠償となると何もない。代替フイルムを貰っただけというのだから泣くになけない。そういう契約になっているのだ。以来、現像を頼むたびに胃がチクリと痛んだ記憶がある。

 そうしたわけでカメラマンを廃業してこの方、ほとんど手を出さなかった写真だが、電子書籍の配信やらブログサイト立ち上げなどで否応なしに撮る機会が増えてきた。DSCF0498-Bそこでデジタルカメラに話題を移し、つい先日に行なったカメラ分解について書くつもりだったが、すでに話は(わるい癖で)脱線して長くなっている。以下は来週ということにしておこう。
 それにしても探しているカメラは一体どこにあるのだろう。

もらったり拾ったり

P1240173 田舎に移住して以来、なにごとにつけて「もらったり拾ったり」を実践している。別段、自給を目ざしているわけではないが、金を出して買うなどというのは、最後の最後、どうしても入手不可能と判断したときの選択、ということになる。とくに自宅をセルフビルドするようになって、この傾向がより強くなった感じがあり、ほとんど病気ではないかと思うことさえある。

 しかし私だけではないようだ。ログハウスをセルフビルドする仲間に聞いてみると、例外なく「もちろん」とうなずくわけで、言ってみれば金科玉条ものであろう。たとえば「これ買ってみたんだ」と言っても、およそは「ふーん」といった鈍い反応しか返ってこない。ところが、
「いや、じつは拾ったものなのだ」
「へえー、どこで? もう一つなかった?」
「さあ、どうかな。ほかの人が拾ったみたいだが……」
「その人からもらえないかな。ねえねえ、紹介してよ」
 といった感じに話がはずむ。いや、もう、手のひらを返したような執心ぶりだ。

 そう言えば「もったいない」運動が話題になったことがある。ノーベル平和賞を受賞したケニア人女性のワンガリ・マータイさんが来日したさいに知った「もったいない」という言葉には、3RつまりReduce(削減)、Reuse(再利用)、Recycle(再資源化)にプラスしてRespect(尊敬の念)が込められている、と深く感銘をうけて始めた運動らしい。

「もらったり拾ったり」も似たような倹約精神から発しているが、少なくとも私の場合は、確たる思想や信念から生まれたものではない。ひたすら倹約したい一念で、どちらかと言えばケチに近いだろう。「もらったり拾ったり」して造ったはいいが、まるで役立たなかったり、さらなる加工のため新たな道具を購入、といった事態が度々ある。結果、最初から買ったほうが安かったりするわけだが、それでも満足なのだから世話はない。

 トップ写真の椅子もそうした一つだ。原型は餅つきに使う臼(うす)で、わが家正面の川岸に捨ててあったものだ。なにやら加工途中の痕跡があるところをみると、欅(けやき)のあまりの固さに断念したものらしく、ならばと拾ってきて椅子に加工してみた。
 ストーブ前に置くつもりだったが、なにせ固い材質なので座り心地がわるく、お尻が冷たい。さらには重いのも欠点で、どうにも使いにくかった。それなりに存在感はあるのだが、およそは役立たずとなって、とうとう単なる場所塞ぎとなってしまっている。

 ところで年明け早々、その川岸から拾いものをした。去年秋の集中豪雨のさい、田圃近くの川岸が崩れて立木が何本か倒れかかった。田圃の持ち主が伐採すると知って、すかさず駆けつけると、枝片付けを条件に「もらったり拾ったり」交渉をはじめた。
 おそらく実生の欅なのであろう。太さは30センチほどとすこし細いし、加えて水辺育ちだけに建材にはならない。軟らかいうえに乾燥に時間がかかるからだが、もっとも最近は、欅のように暴れやすくて扱い難い材木は大工さんに人気がないらしい。こっちは薪にするつもりだからそれは関係ないわけだが、
「薪にする? 欅だよ」
 といぶかしげな顔をされた。

 ご近所でも薪をつかう家はあるが、欅はあまりよろこばれない。すくなくとも囲炉裏ではまず焚かない。煙の刺激が強すぎて目によくないらしいのだが、ここではあえて書かないでおく。いずれ薪割りを話題にするときにでもくわしく書き触れてみたい。
 ともあれ煙を完全排出する薪ストーブではまったく問題ないわけで、そんなこんなで薪の原木集めの「もらったり拾ったり」交渉はめでたく成功した。しかしながら枝片付けやら、玉切りしたうえでわが家まで運びこむのに四日ほどかけたから、やはり買ったほうが安かったね、と言われてしまうと反論できない。

ご存知か

「ご存知か」とは、敬愛する遠藤周作氏が著書『反逆』の冒頭に書いた一節だ。日本に最初に黒人が来たのはいつだったかを読者に問い、京都を訪れた宣教師の一行に黒人の召使いがまじっているのを知った織田信長が「呼べ」と彼独特の高い声で命じ、宣教師はあわてて黒人を伴い本能寺に伺候した。

 合理主義者の信長は人間の皮膚が漆黒に光っていることがどうしても信じられなかった。
「洗え」
 これもひと言。彼はこの男の上半身を裸にして小姓に洗わせた。その皮膚は墨で染めたのだと考えたのであろう。

 と遠藤氏は書きつづけている。これにしびれた。最初に読んだのは、30年近く前のことだが、これほど信長という男をあざやかに描写した文章はない、といまだにしびれつづけている。
 それゆえに織田信長を書けない、というのが本音か、それとも言い訳かはここでは書きふれないけれど、折にふれてこの言葉を思い出したり、書いたりしている。とくに田舎暮らしを始めてから「ご存知でない」ことが多かったせいもあるだろう。

 たとえばカボチャの花だ。カボチャにかぎらず草木の花は、雄しべ雌しべが受粉して結実すると、はるか大むかしに習っている。ところが菜園の真似ごとをするようになったとき、カボチャの花の根元に丸く小さな実があるのを発見、これが大きく育って食用になると知った。これが雌花で、雄花は別にあるのだ。
「ほほう、そうなのか」
 とやたら驚き、驚きついでに、締め切り間際のエッセイを、
「ご存知か」
 と仰々しく書き出してしまった。ところがあとになって「ご存知ではない」のは、どうやら私だけだったらしいと気づいたりもした。

 それに懲りずにまたも「ご存知か」なのだが、冬至の日に昼間が一番短い、とは小学生でも知っている。毎年12月末に冬至をむかえれば「やれやれ、やっと昼間が長くなるか」とホッとするもので、とくに田舎暮らしをはじめた当初はその気分が強かった。

 わが家は東西に細ながい谷間に建っているため、太陽の位置が低い冬になると、山の端にかくれてなかなか顔を出さない。当然、冬至が過ぎれば日の出が早くなる、と大いに期待する。なにしろ最低気温-10℃の土地柄だけに、午前9時近くになって昇ってくる日射しのありがたさは身にしみているのだ。

P1240144-B

 ところが早くならない。いや、遅くなっている気配さえある。
「おいおい、どうしたことだ」
 と調べはじめる。新聞の取り置きを引っ張り出して暦欄を探し、切り抜いてならべてみたりする。するとどうしたことか、日の出時間は冬至が過ぎても少しずつ遅くなっているではないか。そんなバカな、と思いつつ再度調べることになる。

 というのはインターネット誕生以前の当時の話であって、小説の史料調べに公立図書館に行ったついでに思い出して、あれこれ調べることになった。その結果、昼間の長さは太陽の角度によって決まり、日の出日の入りは太陽の運動によるものらしいとわかった。
 言うまでもないが太陽が動くわけではなく、地球の傾きや公転軌道が楕円のため起こる現象のようで、冬至のあと半月ほど待たねば日の出は早くならないらしい。そこのあたりは私には理解不能でうまく書けないが、いまではネット検索でいとも簡単に調べられ、たとえば国立天文台のホームページにくわしく解説されているのでご参照ねがいたい。

パノラマ写真-C

 そんなこんなで山の端に隠れたわが家の日の出は、年が明けた1月13日ごろから少しずつ早くなり、およそは三日間で1分ほど早くなる。上記写真は午後2時半過ぎで、あと1時間もすれば日が暮れる、……と書いてはみたが、やはりこんな話、「ご存知でない」のは私だけだったかもしれないな、といまでは思っているのだ。

遅まきながら……。

 電子書籍のセルフ・パブリッシングを本格的にはじめて、はやくも一年が経過する。短編小説の配信がほぼ終了し、つづいて長編小説や連作小説、あるいは新刊作品を手がける予定だが、この期に及んでやはり必要かと思うようになり、遅まきながらWEBサイトを始めることした。
 ブログを中心として書きつづけるつもりだが、やや時期を逸した種まきだけに、ぶじ発芽して親しんでいただけるサイトに成長してくれるかを心配している。それを願いながら、自己紹介やら電子書籍出版のきっかけなどを書いた一文を、すこし手直してお届けすることにした。

             ――『双子家康・その真相 あとがき』より――

 どうやら自己完結型の人間らしい、と自覚したのは、かれこれ三十年前のことだ。すべてを自分でやりたがり、その結果がどうあろうとも自己満足している。そんな性格だったわけで、フリーランスのカメラマンを手はじめに、VP制作や広告づくりを二十年間やった後、エイヤッ、とばかりに小説を書きはじめ、あげく昭和の最後の年に東京を脱出すると、日光南部の谷間で田舎暮らしを始めた。
 つまりは協調性のない男が、わがまま勝手な生き方を選んだということだから、苦労の連続となるのはごくごく当り前。しかし、いま振り返ってほとんど覚えていないのは、苦労なんぞは片っ端から忘れてしまう性格ゆえだったに違いない。

 とにかく何でも自分で造って暮らした。別段、思想的に自給自足をめざしているわけではなく、単に金で買えないから造るしかないのであって、読みたい小説がないから自分で書く、という場合も含めて、およそは性に合っていたのだろう。ログハウスを自分で建て、家具を造り、山羊を飼い、薪割りのかたわら野菜畑を耕し、その合間に小説を書く、といった感じに過ごして来た。

 そうして七十歳になったとき、新しい何かを造ってみたいと思ったが、必要な家具はあらかた揃えてしまったし、二十年住んだログハウスも建て直すほどでもない。たとえばパソコン自作に手を出してみたこともあるが、パーツの十個ばかりを組み立てるだけだから、半日もあれば完成してしまい、たいして面白くもなかった。
「仕方がない。売れそうもないあの作品でも書きはじめるか」と考えたとき、ふと思いついたのが〝電子出版〟だったのだ。

 出版不況とやらの昨今、周囲は電子出版の話題でもちきりのようだが、じつは一度も読んだことはなかった。ちょっと調べてみると、なるほど、創生期らしいカオス状態。すさまじい玉石混淆ぶりだが、それだけに興味ぶかく、なにより自分ひとりで完成させられるのが、ひどく面白そうだった。
 たとえば小説を書いたとしても、出版社や印刷所の手を借りなければ本にはならない。そこのあたりに自己完結型人間として不満がなかったわけではなく、そもそも売れそうもない本など書いたところで、不況さなかの出版社がウンと言うわけがない。
 その点、電子出版の費用対効果は抜群だ。少数出版などお手の物で、すべて自分でやるつもりだから費用ゼロも可能、とあればやらない手はないだろう。

A1-001

 そこで書き出したのが本稿『双子家康・その真相』ということになる。じつは前々から構想してはいたのだが、「とても売れそうにありません」と編集者諸氏がそろって首をかしげたニッチな題材。まったくもって電子出版むきだったわけだ。
 また執筆に使用しているワープロソフトに、電子書籍用のEPUB出力機能があるのも幸いだったが、調べて見るとフリーな変換ソフトがいくつも発表され、さらにはサブ機に入れたLINUXでもそれらの使用が可能のようでもある。

P1230056 当然、全部自分でやる。たとえば表紙デザインだが、使用した〝三ツ葉葵紋〟は、日光東照宮参道に立てられた門標で、これを自分で撮影すれば著作権はクリアでき、奥さんお下がりのデジカメを片手に、車を十五分ほど走らせればこと足りた。こうした金箔物は、「くもり空に撮る」と、かつてカメラマンだったころを思い出しながら撮影したあとは、無料写真編集ソフト〝Paint〟でゆがみを矯正し、同じく無料ソフトの〝JTrim〟を使って文字を組み入れるなども、昔とった杵柄に近い作業ということになるだろうか。

 一番の難関は、kindleやiBooksなどへの登録、税務関係のEINやW-8BEN申請といった出版手続きだったろうか。英文が多いのはもとより覚悟のうえだったが、やたら字が小さくて老眼泣かせ、ルーペ片手のなかなか手強い作業だった。

 かくて出版の運びとなったわけだが、はたしてどうなるか、とすこしばかり気にしている。もともと売れない小説ばかり書いてきたから、反響のなさには慣れたものだが、こんな素材本がどこまで読まれるかに、いささかならず興味がある。さらには本稿を書きすすめる途中、いっそ小説『双子家康』の執筆に踏み込んでみるか、とチラッと思ったりしたのが、なにやら頭の隅にのこっている気配もするのだ。
 それにしても電子出版にさいしては、先行諸氏のブログにずいぶんとお世話になった。その親切さには頭がさがる思いがあり、あらためて謝意をのべておきたい。