ストーブの灰

P1240520 わが家の薪ストーブは「みにくいアヒルの子」(Ugly Duckling)と呼ばれているデンマークのSCAN社製だ。奧に長いシガータイプで、やや見栄えがしないための愛称だろうか。8kwと小型ながら燃焼効率がよく、43センチもの長い薪が使えるため、頻繁に薪を入れずにすむのが気に入っている。
 わが家をセルフビルドした1994年の導入だから、かれこれ22年間も使用したことになるが、まったくの故障なしで、よくぞ働いたとほめてやりたい。とくに5年前の「3.11」での大活躍ぶりはいまでも思い出すが、今日はその話題ではない。

 震災以後、いまだにつづくやっかいな問題がある。原発事故による放射線物質は、関東一円にあまねく降りそそいで汚染したが、絶対安全とされた原発事故の原因や責任を、ここで問うつもりはないし、その資格もない。
 資格はないが、地図上の区分けなど関係なく降り注いだであろう汚染の対策が、なぜか市町村ごとに区分けされているのには唖然とする。科学的に汚染濃度を測ることなく(測っているのかもしれないが)平然として市町村区分けを押し通している。細かな設定の手間を惜しんだのだろうが、その結果、たった数十メートル違いで除染対策や賠償に差が出てしまう。それでよしとする感覚が信じられず、その能天気ぶりが津波を甘くみて事故を誘発したのだ。

P1240521-01P1240463 太陽の光のように降りそそいだ放射線は、森林を汚染し、薪となってわが家の「みにくいアヒルの子」で燃やされている。セシウムなどの放射線物質は、燃やしても消滅せず、そのほとんどが灰の中に残される。燃えた薪が体積を減らしたぶん、濃縮されると考えればわかりやすいか。その濃縮率は200倍を超えると言われている。
 現在、8000Bq/kg(ベクレル/kg)以上の汚染物質は、公的機関が回収することになっているし、林野庁は流通する薪の放射線量を40Bq/kg以下と指定した。燃やしたとき200倍に濃縮されるからであろう。

 しかし放射線量を表示して売られている薪など見たことがなく、ほとんど野放し状態。わが家でも測定せずに燃やしているが、灰はすべて市に回収してもらい、三年前から放射線測定をすることにしていた。
 農林水産省では、肥料用草木灰の放射線セシウム濃度を400 Bq/kg以下と決めており、ストーブの灰を肥料利用できるか判断するためで、近くのクリーンセンターに持込めば「簡易ながら測定してくれる」と日光市役所で教わったからだ。

2014年……6876Bq/kg。
2015年……6506Bq/kg。

P1240527 という結果がわかる写真を掲載しておくが、去年、ほとんどメモとしか見えない紙切れをわたされたときには、
「おいおい、冗談かよ」
 とムッとした記憶がある。どうやら汚染を心配する市民の気持など、まるで汲み取っていないようで、汚染対策の能天気ぶりと一脈通じる、自治体のゆるゆる精神を垣間見た気がした。

 そこは我慢して今年もクリーンセンターに測定を依頼した。一応受取ったあと上司と相談したようで、測定は出来ない、と断られてしまった。
「当所での測定は、あくまで簡易であり、その値が一人歩きするのは困る」
 というのが理由だった。これにはまたまたびっくりだが、どうやら震災5年目なので測定結果をブログに掲載する、と前もって断ったのがいけなかったらしい。
 一年目二年目、そして今年と、市民対応のあきらかな変化があり、それは劣化というほかはないもので、ゆるゆる精神の自治体が、わが身をまもろうとする行為と見てとれるだろう。むろん組織としての話で、受付けた担当氏は、上司の意向を伝えただけなのであろうけど……。

 いずれにしろ2年間も測定しておきながら、今年に限って拒否するには、あまりに希薄な理由というしかない。もちろん、どうにも納得できないので、日光市役所本所なり、栃木県庁なりに事情を聞いてみるつもりだが、その結果はまたの機会にお知らせしよう。

 そんなわけで測定結果は出ていないが、今年も畑の肥料とするのは無理であろうと、前々から考えていた。ご案内のようにセシウム137の半減期は約30年なのだから、私が生きているうちに400 Bq/kg以下になることは、ほとんど絶望的なのである。
 しかし、まあ、放射線物質の半減期の知識を持ち、話題にしたり、ブログで読んだりする国民なんて、地球上どこを探しても日本だけではあるまいか。いっそ今年のサミットか国連総会あたりで自慢してもらいたいくらいだ。

春の酢漬け

 春めいてくると「春告げ魚」を思い出す。魚偏に春と書く「鰆…さわら」も「春を告げる魚」だそうだが、どちらかと言えば西日本での話であって、東日本では「鰊…にしん」を「春告げ魚」と呼んでいる。
 いきなりの余談だが、じつはこの「鰊」をずっと魚偏に東とばかり思っていた。しかし「鯟」と書くと「とう」と読み、まったく別の魚のようで、中国大陸に見られる白い鯉のような魚らしい。手書きに縁遠くなってずいぶん経つが、漢字のど忘れや間違いはいよいよ深刻だ。

 私の記憶では「ニシン」と言えば「身欠きニシン」だった。カラカラに乾いた「本乾もの」を米のとぎ汁に一晩漬け込み、醤油、みりん、酒、生姜を入れてこってり炊きあげた甘露煮は、惣菜によし、酒の肴によし。私にとってソウルフードのひとつと言っていい。

P1220966 冷蔵輸送が当り前になった近ごろは、店頭に「生ニシン」を見かけるようになった。ほとんどは塩焼きか煮付けにするようだが、鮮度のよさそうなものを選んで酢漬けにしている。これがここ数年の春行事のようになっている。

「ニシンの酢漬け」は、オランダが有名だが、ドイツやポーランド、北欧などでも大いに食べられている。そんなレシピをどこかで見つけた私なりの「ニシンの酢漬け」だが、けっこう気に入っている一品だ。

●生ニシン…3匹。
 お店に頼んで三枚に下ろし、腹の小骨もそぎ落としてもらう。たいがいの魚は下手なりに捌いてしまうが、にしんなど身がやわらかなものは苦手で、腹骨を落とすとなると、身肉がなくなってしまう。

にしん酢漬け003①塩をやや強めに振り、バットにならべて冷凍24時間。
 せっかくの「生ニシン」だが、アニサキス予防のため冷凍する。イカ、サバ、ニシンなどに寄生するアニサキスは、塩や酢で締めても死なず、胃壁に入り込むと七転八倒の激痛を起こすらしい。死に至ることはないようだが、2,3日でアニサキスが衰弱死するのを待たねばならない。
 ニシン王国オランダでは、マイナス20℃で24時間冷凍することが法律で義務づけられていると聞き、ならばと冷凍ニシンを使ってみたことがある。安価のうえ安心なら言うことなしだが、食味がもうひとつ感心しなかった。

②酢洗い・皮むき・そぎ切り。
 分量外の酢で塩と残ったウロコを洗い落とし、半解凍になったら皮をむく。身の柔らかいニシンでも塩と酢で締まっているから大丈夫。頭のほうの皮をつまんで一気にむいてしまう。あとはひと口大にそぎ切りにするが、中骨が気になるようなら毛抜きで抜く。

③漬け汁…以下を入れて混ぜておく。
オリーブオイル…1カップ。酢…4分の3カップ。黒コショウ粒…6、7粒。 塩・粗挽きコショウ…適宜 。粒マスタード…小さじ1。

④玉ねぎ1個分のスライスをつくり、保存ビンにニシンと交互に詰め、最後に漬け汁を注ぎ込む。好みでレモンスライス、白ワイン、砂糖、ディルその他を入れてもよい。

P1240328 冷蔵庫で一日おけば食べられ、よく漬け込んでも美味。玉ねぎやニンニクのみじん切りを添えてもよいが、味の決め手は酢にあるので、いろいろ試してみるといい。ちなみにわが家ではこれ

P1240383付言…ニシンを捌いてもらったら白子ががついてきた。もったいないのでアヒージョ(ニンニク、唐辛子入りのオリーブオイル煮)にしてみたが、やや臭みがあり、味も好みではなかった。要研究か。

伊曽保物語

 イソップ物語をあらためて調べたとき「ほう、そうだったのか」とひどく驚いた記憶がある。今月に電子配信した『本多の狐』やその続編『竜の見た夢』を書いたころの話だ。『天草本伊曽保物語』と呼ばれる資料が、吉利支丹信徒に読まれた「イソップ物語」の翻訳ものと知って興味をおぼえ、急いで神保町の古書店で購入した。

 イソップ物語が古代ギリシャの寓話集だとは、すでに知っていた。成立したのは紀元前600年ごろで、作者とされるギリシャ人アイソポスは、エーゲ海に浮かぶサモス島の奴隷だったといい、イソップはその英語表記。寓話集として集成されたのは、起源前300年ごろとされていると知っても、さほど意外とは思わなかった。
 しかし、わが国に紹介されれたのは明治に入ってから、とばかり思っていたから、はるか昔の戦国時代のころと書いてあるのは意外だったし、さらには活字によって印刷されたと知るのは驚き以外のなにものでもなかった。

本二冊 古書店で手にした『天草本伊曽保物語などのこと』は、文学博士島正三編とある130ページほどの薄い冊子で、いわゆる影印本(原本を写真製版した本)であり、すべて欧文で書かれていた。「こいつは読めんぞ。弱ったな」 と思ったが、たとえ片言でも理解してみたいと思った。
「これは何語かね」
 と一応、店主に聞いてみたが、さあ、と首をひねられてしまった。
「しかし、天草本とあるからにはポルトガル語ではありませんかね」
「あ、なるほど」
 さすが本の専門家だ。すかさず門前の小僧ぶり(失礼)を発揮、さらに加えて商人としての本領もわすれない。
「ポルトガル語なら日葡辞書が置いてあります」
 なるほど、とまたしてもうなずいてエエイッとばかり、大枚はたいて2冊あわせて買うことにした。私の単行本なら20冊ほども買える金額だった。

イソホ物語 しかしポルトガル語ではなかった。いや、部分的には使われていたが、多くはローマ字表記である、といろいろ調べてわかった。ただしポルトガル式ローマ字というやつだった。
 現在使われているローマ字表記は、英語の発音にもとづいたヘボン式ローマ字か、それを改良した日本式ローマ字。江戸時代には蘭学者などによってオランダ式ローマ字が使われ、はたまた戦国時代に来日したイエズス会宣教師は、ポルトガル語に準じたローマ字で日本語を表記したのだ。
 
 原本の表紙らしき影印に「ESOPONO」とある。ローマ字であるなら「エソホノ」と読める。あるいは『伊曽保…イソホ』つまりイソップのギリシャ語読み「アイソポス」か、と見当をつける。
 しかし、つづく「FABVLAS」が読めない。試しに開いてみた『日葡辞書』は、日本の話し言葉をローマ字表記したものでまるで役立たない。いろいろ考えたあげくポルトガル語か、と思い当たって『葡日辞典』を引く。これが見事にビンゴだったわけで「FABVLAS→寓話」とわかる。つまり『イソホノ寓話』……か。
 そうした苦労も昔の話。現在ならGoogle翻訳でポルトガル語を指定すれば、たちどころにわかる仕組みなのだから、なんだか気が抜けてしまう。

 あとはポルトガル式ローマ字の手引きを参考に読み下すわけで、たった数行の翻訳に何やら苦労させられる。このあたりに独学者の限界があるのだが、そのぶん喜びは大きい。すると読んだにちがいない吉利支丹信徒たちの喜びようが眼に浮かび、さらには李朝活字の資料とたちまち結びついてしまうところが小説書きの特権かもしれず、四〇〇字詰め千枚を超える2冊の物語を書くきっかけになるのだから、苦労なんぞはすぐに忘れてしまうのだ。
翻訳文

それ以後

P1240358 応募した作品が授賞して小説家デビューをはたしてホッとしていると、こう言われることが多い。
「次作は続編を……」
 これは担当編集者のきまり文句のようなもので、もちろん新人作家としたら否応もないものだ。はい、わかりました、とうなずいてしまうのだが、こうして小説書きとしての産みの苦しみをはじめて味わうことになる。

 それ以前、つまりデビュー以前にも、当然小説は書いていた。私の場合、書いて書いて書きまくっていた、といったほうが正確で、書いては応募、書き直しては応募の日々。それこそ手当たりしだいで、すべて記憶しているわけではないが、30回ぐらいの応募はまちがいない。
 あまりの落選つづきに、やはり書き方のイロハを習うべきか、と思い立って小説教室に通ったことは別の話だが、応募したなかで4作品が最終候補作にのこり、2つの作品が授賞できた。言ってみれば30戦26敗2引き分け2勝ということになるが、これが好成績なのかどうかわからない。すくなくとも幸運だったといまでは思っている。

 そうしたころは書いても書いても次の作品が思いうかんだものだし、思いうかべるくらいだからある種の予備知識があり、書くべきとっかかりが、すでに頭の中に出来ていたように思う。ところが「続編を……」となるとそうはいかない。まっ暗闇の手探り状態。頼りになるのは第一作ということで、となれば当然のことに「それ以後」を求めて調べまくることになる。

 坂本龍馬を書くため高知市におもむいた高名な作家は、市中すべての古本屋を呼びよせ、買い集めたトラック1台(貨車1両とも)の資史料を書斎に送らせた。はたまたある作家は、切支丹史料を探しに神田神保町の古本屋を訪れたさい、必要な史料を購入したあと、ふと考えて「棚にある史料のすべてを購入」。これで他の人が書けなくなるからゆっくり執筆できると考えた。
 そんな話がまことしやかに語られているが、乗用車1台分にちかいわが身の古本漁りぶりを思い起こせば身につまされるし、あってもふしぎじゃないと思われてくる。

P1240333 なんにしても第一作『本多の狐』は、主人公が吉利支丹とともに天草に向かって終わった。その続編となれば、島原の乱から調べるのが順当だったろうが、なぜか遠く離れた東北仙台を舞台とした「それ以後」になっている。どこでどうなってそんな物語になったか、いまとなってはまるで覚えていない。
 ただ「あとがき」に、三万余の信徒が死んだ島原の乱は、ローマ法王庁において殉教と認められていないこと。さらに乱終結の翌年から翌々年、仙台領大籠村で信徒処刑が起こっていて、これを東洋キリスト教最大の殉教とされたことに書きふれている。おそらくこの史実に触発されて考えついたのだろう。

 そう言えば仙台藩の重臣片倉家の一人として登場する片倉久米介は、おどろいたことに真田信繁(幸村)の遺児とされている。むろん大坂落城のさい、片倉家当主が養育を託されたという史実があってのことで、それを書いた当時は、いわゆる意外史に属したものだった。それがいまとなってはネットに多くの記述があり、簡単に参照できるのがまたおどろきだが、今年の大河ドラマ「真田丸」で片倉久米介のエピソードが語られるかはわからない。

縦か、横か

 猫の瞳が明るいところで縦に細長くなることはよく知られている。樹上生活を長くつづけたネコ科の特徴とばかり思っていたが、そうとも言えないらしい。ネコ科の動物すべてが縦長の瞳というわけではなく、同じように樹上生活を送るヒョウも縦長ではない。反対にイヌ科でありながら狐は縦長の瞳を持っている。
 進化とは関係ないのか、と思うものの、イヌ科やネコ科の祖先は、ともにネコ目(食肉目)のミアキスという樹上生活動物だったと考えられているから、そのころの特徴が猫や狐に残ったという可能性もあるだろう。

 山羊の瞳は横長だ。羊、馬、牛、鹿などの草食動物は、ほとんど横長の瞳を持っているようで、草原などで生活し、肉食動物を早く見つけるために広い視野が必要だったからとされている。
 驚いたことに鯨も横長らしい。祖先は陸上生活をしていて、生物学的にはウシ目(偶蹄類)に分類される。すると鯨と山羊は親類になるわけだ。

P1240311-b そう言えば私には、横長の瞳を水平線になぞらえて「山羊の眼のなかに海がある」と書き出した作品(『黒船の密約』)があるが、この話になると長くなる。いずれ電子書籍化するときの話題として本題にもどりたい。

 じつはこのところ、縦か横かで少しばかり悩んだ。いや、瞳にはまったく関係はなく、横書きか、やはり縦書きかという問題だ。つまり小説の執筆は、当然のように縦書きだったが、このブログサイトを立ち上げるさい、縦書きにするか、横書きかでかなり考えたのだ。
 ブログサイトにかぎらず、多くのネット表示は横書きだろう。これが少しばかり読みにくい。1行の字数があまりに多いと、他の行に視線がずれてしまうのだ。小説などの縦書きでは、1行40字以上で印刷されるが、隣の行に視線が移るようなことはほとんどない。視線が上下移動しても揺るがないわけだ。

 こうした傾向は私だけではないようだ。たとえばネットなどの横書き文章では、1行空けが多用される。ときには半行分の空白をはさみ、1センテンスごとに文章を区切って表示するわけで、これによってずいぶんと読みやすくなる。新聞などの縦書き文章などでは見られない形態で、おそらくは左右移動のさいの視線のずれを防ぐ、自然発生的な工夫だろうと思われる。P1240304
 そして欧文の文章には1行空けがあまり使われない。かれらは視線の左右移動に強いのだろう。横書き人種と縦書き人種にはそんな違いがある。

 そもそも文字を縦書きにするか、横書きにするかは、だれがどう決めたのだろうか。当然、視線の左右移動に強ければ横に書くだろうし、上下移動に慣れていれば縦に書いたりするかもしれない。もしそうであるなら生活形態が文字の書き方に影響したことになり、猫や山羊の瞳の形の違いが、樹上生活や草原暮しの名残だったと同じように考えられるわけだ。

 ひろびろとした草原で獲物を追いつづける狩猟民族は、日ごろから視線の横移動に鍛えられた結果、横に文字を書くようになった。一方、作物の種をまき、発芽した苗が上へ上へと伸びるのを、じっと見つめつづけた農耕民族は、文字の縦書きを採用するようになった。

 こんな仮説が成り立つのではないか。実に面白く、これが真説ではないか、と私は思っているのだが……。

木割り狐

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机にむかうのに飽き飽きしていた。東京住いのころだったら、そのまま放り出していただろう。だとすると『本多の狐』という小説は生まれなかったに違いない。

「やりたいことしかやらない」と、すべてを清算して田舎暮らしを選んだとき、「やると決めたら必ずやる」と自分に誓った。執筆に行き詰まったからといって途中で放り出すわけにはいかない。今までの私とは違うのだ、とまで思い詰めていたかどうかは忘れたが、すこし息抜きしようと東北の角館に出かけた。あるいは取材だったか、とにかく26,7年前の桜の時期だった。

武家屋敷で一人の老人が〔狐〕を削っている。多分、観光のため町から依託された老人クラブの仕事らしく、イタヤカエデの丸木を幾つかに割り、小刀でさくさく削って顔をつくる。それだけの素朴な〔狐〕だが(正式な名前はなかったと記憶している。木割り狐と命名した)、一目見て背筋がずずんときた。これだとおもった。
漂泊の民サンカの人々が伝えたという郷土玩具だが、何といっても表情がいい。胸をこころもち張った感じの立ち姿に、ツンと尖らせた鼻。とぼけて愛らしく、野性的ながら気品さえ感じさせる。そんな表情は、私が求めていた「本多の狐」のイメージそのものだった。
──中略──
あとはもう、頭の中で〔狐〕が跳び回るばかり。史料をくわえてくるかと思えば、逸話にとび跳ね、子狐のかわりにエピソードをつぎつぎと産み出す。跳ねとぶ〔狐〕の足跡を辿れば自然と物語が出来てくる。そんな感じだった。しかし、なんとも奔放な〔狐〕であったため、寝ていても夢の中で跳び回る。これには少々閉口したが、書き上げたとき七百枚に近く、削りに削って五百枚にした。今になって考えてみればよくも書いたもので、ひょっとして〔狐〕に憑かれていたのかしらん、と思われてくる。(『本多の狐』あとがきより)

長編を書きはじめて間もないころだったし、加えて発行される見込みもない応募作品ということもある。遅々として書き進まない作品だったが、日光に帰ってから嘘のように書きすすんだ記憶があり、さいわいにも時代小説大賞を受賞して、私の実質デビュー作となった。
その作品を電子書籍化するなど、当時は考えもしなかったが、それにしても30年近く前である。そのころ使っていたワープロ機は、当然のようにフロッピーディスク使用で、しかも5.25インチ型というから、いまとなっては保存データーも取り出せない。もちろん専門業者や発行元に依頼するという方法もあるが、コストの発生やら面倒な交渉を嫌って、手持ちのスキャナーによる原稿起こしを選んだ。
P1240273 しかしスキャナーも古く、Win10には未対応ときている。いろいろ試行錯誤した結果、winXPをインストールしたノートPCでスキャンし、スキャン機対応のOASYSファイルを作成したあと、一太郞、Word、EPUBとファイル変換させる、という作業工程を踏むことになった。他にもやりようがあるのかもしれないが、私にはこの方法しか考えつかなかった。

そんなこんなの苦労のあとに読み返すわけだが、予想したようにその拙さに目を覆い、苦笑の連続ということになる。それでもときとして、よし、とうなずいたり、ぽん、と膝を打ったりする箇所がないではない。どこかに置き忘れてしまった推進力と飛躍力で物語を動かしている、とわがことながら羨ましく感じ、やはりな、と反省したりもする。
反省力に欠ける私にとっては、それもまた電子書籍化の効用のひとつということになるのだろうか。

本多の狐

涙をふいて……。

「涙をふいて」……と歌い出してから、うむむ、とうめいた。あとの歌詞がどうしても出てこない。ま、忘れっぽくなっているからめずらしいことではなく、いつものように奥さんに聞いてみたところ「古いわね」と言ったきり、はきとした答えは返ってこない。どうやらご同病の健忘症であるらしい。
 最近は「検索」という手があるから、さしたる問題ではないが、それがまた症状を悪化させているような気もする。その「検索」にやや手間取ったのは、「涙をふいて」が歌い出しだとばかり思っていたからで、サビの部分と知れてようやく判明。かれこれ30年以上前に流行った曲のようで、CMソングに採用されて一躍ヒットした、という話は今日の主題ではない。

「涙をふいて雪国へ」とつづけたい。やはり歌か、と思われるむきもあろうけれど、いやいや、前回、途中になってしまったカメラ分解を話題にしたいのだ。
DSCF0498-B いま使っているデジタルカメラは、レンズまわりの傷をみてもわかるように、ブログを10年近くつづけている奥さんのお下がりだ。カメラマンだったころのフィルムカメラは、機械仕掛けの光学製品だったが、こいつは電機メーカー製。つまりは電機製品ということになるのだろうか。
P1240023 レンズの蓋が自動で閉まらなかったが、精密ドライバーで軽く叩いたらなおってしまった。(そう、電機製品は故障したら叩くにかぎるのです)しかし、いつごろからか黒っぽい影が映りこむようになり、このままではどうにも使えない。おそらくレンズの奧か、センサーに埃が付着しているのだろう。となれば「やはり分解掃除」するしかない。

 古いフイルムカメラなら分解したことがある。ながく使い込んでくると、レンズの絞りまわりに油や水分がにじむことがある。カメラの絞りは、目の虹彩に相当する。そこでにじんだ液体を「涙」と呼ぶわけで、低温時に凝固してしまうと、自動絞りが効かなくなり、極端な露出オーバーとなってしまう。そのため雪国ロケなどの前には、動作を点検し、ときには分解して「涙をふいて」おかねばならない。
 ほとんどの場合は専門の技術者に依頼するが、急ぎのときやロケ先となるとそうはいかず、素人ながら自分で分解掃除したことが何度もある。
 ならば出来ないわけはなかろう、と多寡をくくってしまうのが、数ある私のわるい癖のひとつ。ときには失敗して「涙をふいて」あきらめたことが何度もあるのだが……。

DSCF9889-b 電機製品であるからして、バッテリーを外すのがまずは第一。ついで底面のネジ3本、左右側面のネジ3本を外すと、前後パネルと上部軍艦部が外せる。

DSCF9892-b 液晶パネルを横にずらすようにして起こすが、倒れないよう何かに立てかけておくとよい。4本のネジを外して、金属カバーを取り外す。

DSCF9894-d この部分のネジ3本を外すと、センサー部が起こせる。

DSCF9896

 ピンセットを使って慎重に裏返すと、やはり埃がかなり付着していた。おそらくは山羊餌の乾草だろう。軍手と一緒にポケットに入れているようだから、埃だらけになるのも無理はない。

 綿棒で拭き取ると、傷つける心配があるので、ブロアで吹飛ばすのが安全。もちろん息を吹きかけたりすれば、水分が付着したり、唾が飛ぶこともあるので注意が必要。あとは元通りに組み上げて、およそ30分で終了した
 結果は良好。このブログの(今回以外の)写真はもちろん、電子書籍の表紙の多くは、このデジカメで撮影したものを使用している。

わるい癖……。

 古い仕事道具を探しに屋根裏にのぼった。なにしろ25年ほど前に辞めてしまっているから、むろん仕事に使うわけではない。このブログの話題にデジタルカメラを取りあげるつもりで、その導入写真として掲載したいと思ったのだが、どこをどうひっくり返しても見つからない。探しているのはカメラ機材だ。

P1240263-B 屋根裏には、書斎に設置した折りたたみ階段を引き下げてのぼる。銀色に光る太いダクトが天井に据え付けられているが、これは屋根から熱い空気を取り入れて暖房や給湯に利用するOMソーラーの設備で、20数年前にこの家を造ったとき導入したものだ。もちろんセルフビルドだったが、そのとき私は他の工事にかかりきりで、ダクトを持ち上げるのに手を貸したぐらい。主な設置作業は建築家と奥さんがやってくれた、というくわしい経緯はつぎの機会にお話しよう。とにかくカメラ機材だ。

 カメラマン時代の私は、さほど機材を持っている方ではなかった。主にはニコンFと6×6フイルムのゼンザブロニカを使い、ときおり4×5インチのシートフイルムで撮影する大判カメラ(トヨビュー)を使うぐらいだった。
 そのほかニコンFやゼンザブロニカ用の水中ハウジングを自作したりもしたが、そのころ(40年ほど前)に撮った水中写真はほとんど売れずじまいだった。この話もいずれということにしておくが、そうした水中機材や大判カメラ、ストロボや細々としたアクセサリー機材は見つかったが、肝心の小型カメラと交換レンズ類がどこにもない。
 結局、他の場所を探すことにしたが、代わりにちょっと面白いものをみつけた。

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 セコニック製のスタジオタイプと呼ばれた露出計で、被写体に入ってくる光の強さを測定する入射光式。あらかじめASA(アメリカ標準規格のフイルム感度)を設定しておき、針が振れた数字にダイアルをあわせると、別枠にシャッタースピードと絞りの組み合わせが表示され、それによって露出を決定する。
 つまり露出は、シャッターのスピードと絞りの開閉ぐあいでフイルムに届く光を調節するわけで、適切な組み合わせは幾通りもあり、撮影者の表現方法よって選択する。フイルムカメラ時代の撮影は、かように面倒な手順を必要とし、むろんピント調節や構図の良しが出来映えに関係してくるのだが、いまのデジタル時代では単なる語りぐさだろう。とにかくシャッターボタンを押しさえすれば「はい、出来上がり」で、現像処理さえもない。

 そうそう、現像だ。一度、三日ほどかけたロケフィルムを現像所の事故でおシャカにしたことがある。白黒フィルムならともかく、カラー現像となると個人の手には負えず、ほとんどの場合、専門の現像所に依頼する。ところが現像に失敗した。停電があり、おまけに自家発電装置も故障というダブル事故だったと聞かされ、むろん平謝りに謝られたが、損害賠償となると何もない。代替フイルムを貰っただけというのだから泣くになけない。そういう契約になっているのだ。以来、現像を頼むたびに胃がチクリと痛んだ記憶がある。

 そうしたわけでカメラマンを廃業してこの方、ほとんど手を出さなかった写真だが、電子書籍の配信やらブログサイト立ち上げなどで否応なしに撮る機会が増えてきた。DSCF0498-Bそこでデジタルカメラに話題を移し、つい先日に行なったカメラ分解について書くつもりだったが、すでに話は(わるい癖で)脱線して長くなっている。以下は来週ということにしておこう。
 それにしても探しているカメラは一体どこにあるのだろう。

もらったり拾ったり

P1240173 田舎に移住して以来、なにごとにつけて「もらったり拾ったり」を実践している。別段、自給を目ざしているわけではないが、金を出して買うなどというのは、最後の最後、どうしても入手不可能と判断したときの選択、ということになる。とくに自宅をセルフビルドするようになって、この傾向がより強くなった感じがあり、ほとんど病気ではないかと思うことさえある。

 しかし私だけではないようだ。ログハウスをセルフビルドする仲間に聞いてみると、例外なく「もちろん」とうなずくわけで、言ってみれば金科玉条ものであろう。たとえば「これ買ってみたんだ」と言っても、およそは「ふーん」といった鈍い反応しか返ってこない。ところが、
「いや、じつは拾ったものなのだ」
「へえー、どこで? もう一つなかった?」
「さあ、どうかな。ほかの人が拾ったみたいだが……」
「その人からもらえないかな。ねえねえ、紹介してよ」
 といった感じに話がはずむ。いや、もう、手のひらを返したような執心ぶりだ。

 そう言えば「もったいない」運動が話題になったことがある。ノーベル平和賞を受賞したケニア人女性のワンガリ・マータイさんが来日したさいに知った「もったいない」という言葉には、3RつまりReduce(削減)、Reuse(再利用)、Recycle(再資源化)にプラスしてRespect(尊敬の念)が込められている、と深く感銘をうけて始めた運動らしい。

「もらったり拾ったり」も似たような倹約精神から発しているが、少なくとも私の場合は、確たる思想や信念から生まれたものではない。ひたすら倹約したい一念で、どちらかと言えばケチに近いだろう。「もらったり拾ったり」して造ったはいいが、まるで役立たなかったり、さらなる加工のため新たな道具を購入、といった事態が度々ある。結果、最初から買ったほうが安かったりするわけだが、それでも満足なのだから世話はない。

 トップ写真の椅子もそうした一つだ。原型は餅つきに使う臼(うす)で、わが家正面の川岸に捨ててあったものだ。なにやら加工途中の痕跡があるところをみると、欅(けやき)のあまりの固さに断念したものらしく、ならばと拾ってきて椅子に加工してみた。
 ストーブ前に置くつもりだったが、なにせ固い材質なので座り心地がわるく、お尻が冷たい。さらには重いのも欠点で、どうにも使いにくかった。それなりに存在感はあるのだが、およそは役立たずとなって、とうとう単なる場所塞ぎとなってしまっている。

 ところで年明け早々、その川岸から拾いものをした。去年秋の集中豪雨のさい、田圃近くの川岸が崩れて立木が何本か倒れかかった。田圃の持ち主が伐採すると知って、すかさず駆けつけると、枝片付けを条件に「もらったり拾ったり」交渉をはじめた。
 おそらく実生の欅なのであろう。太さは30センチほどとすこし細いし、加えて水辺育ちだけに建材にはならない。軟らかいうえに乾燥に時間がかかるからだが、もっとも最近は、欅のように暴れやすくて扱い難い材木は大工さんに人気がないらしい。こっちは薪にするつもりだからそれは関係ないわけだが、
「薪にする? 欅だよ」
 といぶかしげな顔をされた。

 ご近所でも薪をつかう家はあるが、欅はあまりよろこばれない。すくなくとも囲炉裏ではまず焚かない。煙の刺激が強すぎて目によくないらしいのだが、ここではあえて書かないでおく。いずれ薪割りを話題にするときにでもくわしく書き触れてみたい。
 ともあれ煙を完全排出する薪ストーブではまったく問題ないわけで、そんなこんなで薪の原木集めの「もらったり拾ったり」交渉はめでたく成功した。しかしながら枝片付けやら、玉切りしたうえでわが家まで運びこむのに四日ほどかけたから、やはり買ったほうが安かったね、と言われてしまうと反論できない。

ご存知か

「ご存知か」とは、敬愛する遠藤周作氏が著書『反逆』の冒頭に書いた一節だ。日本に最初に黒人が来たのはいつだったかを読者に問い、京都を訪れた宣教師の一行に黒人の召使いがまじっているのを知った織田信長が「呼べ」と彼独特の高い声で命じ、宣教師はあわてて黒人を伴い本能寺に伺候した。

 合理主義者の信長は人間の皮膚が漆黒に光っていることがどうしても信じられなかった。
「洗え」
 これもひと言。彼はこの男の上半身を裸にして小姓に洗わせた。その皮膚は墨で染めたのだと考えたのであろう。

 と遠藤氏は書きつづけている。これにしびれた。最初に読んだのは、30年近く前のことだが、これほど信長という男をあざやかに描写した文章はない、といまだにしびれつづけている。
 それゆえに織田信長を書けない、というのが本音か、それとも言い訳かはここでは書きふれないけれど、折にふれてこの言葉を思い出したり、書いたりしている。とくに田舎暮らしを始めてから「ご存知でない」ことが多かったせいもあるだろう。

 たとえばカボチャの花だ。カボチャにかぎらず草木の花は、雄しべ雌しべが受粉して結実すると、はるか大むかしに習っている。ところが菜園の真似ごとをするようになったとき、カボチャの花の根元に丸く小さな実があるのを発見、これが大きく育って食用になると知った。これが雌花で、雄花は別にあるのだ。
「ほほう、そうなのか」
 とやたら驚き、驚きついでに、締め切り間際のエッセイを、
「ご存知か」
 と仰々しく書き出してしまった。ところがあとになって「ご存知ではない」のは、どうやら私だけだったらしいと気づいたりもした。

 それに懲りずにまたも「ご存知か」なのだが、冬至の日に昼間が一番短い、とは小学生でも知っている。毎年12月末に冬至をむかえれば「やれやれ、やっと昼間が長くなるか」とホッとするもので、とくに田舎暮らしをはじめた当初はその気分が強かった。

 わが家は東西に細ながい谷間に建っているため、太陽の位置が低い冬になると、山の端にかくれてなかなか顔を出さない。当然、冬至が過ぎれば日の出が早くなる、と大いに期待する。なにしろ最低気温-10℃の土地柄だけに、午前9時近くになって昇ってくる日射しのありがたさは身にしみているのだ。

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 ところが早くならない。いや、遅くなっている気配さえある。
「おいおい、どうしたことだ」
 と調べはじめる。新聞の取り置きを引っ張り出して暦欄を探し、切り抜いてならべてみたりする。するとどうしたことか、日の出時間は冬至が過ぎても少しずつ遅くなっているではないか。そんなバカな、と思いつつ再度調べることになる。

 というのはインターネット誕生以前の当時の話であって、小説の史料調べに公立図書館に行ったついでに思い出して、あれこれ調べることになった。その結果、昼間の長さは太陽の角度によって決まり、日の出日の入りは太陽の運動によるものらしいとわかった。
 言うまでもないが太陽が動くわけではなく、地球の傾きや公転軌道が楕円のため起こる現象のようで、冬至のあと半月ほど待たねば日の出は早くならないらしい。そこのあたりは私には理解不能でうまく書けないが、いまではネット検索でいとも簡単に調べられ、たとえば国立天文台のホームページにくわしく解説されているのでご参照ねがいたい。

パノラマ写真-C

 そんなこんなで山の端に隠れたわが家の日の出は、年が明けた1月13日ごろから少しずつ早くなり、およそは三日間で1分ほど早くなる。上記写真は午後2時半過ぎで、あと1時間もすれば日が暮れる、……と書いてはみたが、やはりこんな話、「ご存知でない」のは私だけだったかもしれないな、といまでは思っているのだ。