「なんと、25年前か」
としみじみと思ってしまう。もうそんなになるのか、という驚きのあとに、ちょっと古すぎるんじゃないか、という心配もなくはなかったわけで、古い掲載雑誌の切り抜きを手に、すこし考えこんでしまった。
いつもそうなのだが小説は、ふと思いついて書きはじめる。テーマやモチーフなどを小難しく考えたことはあまりなく、ストーリーやキャラクターなどを区別なく思いつくのがきっかけだ。ときにはある場面が映像的に思い浮かぶことがあるが、それがラストシーンだったりするのは、なかなかに好都合でもある。
そのラストシーンに必要な要素を数えあげ、その要素が実現してゆく過程をどんどんさかのぼってゆくと、ごく自然にストーリーが構成される……と書いてしまうほど簡単ではないけど、いわゆる幕切れが決まった長編小説のいくつかは、そんなふうにして書きはじめることが多い。
反対に何も決めずに書き出すのがキャラクター小説だろうか。ひょんな拍子で思いついた主人公をある設定に放り込むことでストーリーが動き出すのだが、ラストが決まっていないだけに思わぬ展開になりやすい。書いている本人が驚く、というのも変な話だが、じっさいそんな気分で書きつづけてしまう。
たとえば『峠越え』から始まった与一郎シリーズは、第6作『ご返上』まで書きつなぎ、400字詰め原稿用紙3500枚以上を費やしているが、まだ幕切れを迎えたわけではない。さいわいKDPの「読み放題」では好評のようだから、いずれ第7作を書いてみるか、という気持もないではない。
冒頭に話題にした作品もそうしたキャラクター小説で、切り抜きにあるメモ書きを見ると1992年の3月号とあり、長編小説賞をいただいて本格デビューした翌年ぐらいの短編依頼だから、まだログハウス建築に手を出していない、けっこう真面目に小説を書いていたころの話だ。
沖とり魚の血を抜くように、あっさり人を殺める”野締めの市蔵”という『凄い男』がいる。島帰りの殺し屋として裏の世界で恐れられたが、いまは引退して堅気の料理人だったはずだ。しかし、そうもいかない理由があるのだ。そんなキャラクターと捨て子した赤ん坊が大店の一人娘として立派に成長、といった設定の組み合わせがいたく気に入ったせいか、ときおり思い出しては短編に仕上げて単行本に掲載したりした。そうした4作品に書き下ろしを加えて連作集としてみようかと考えたのだ。
しかし25年も前の作品である。時代小説だから内容的には問題がないとしても、原稿となるとそうはいかない。残っているのは雑誌切り抜きとプリントや、いまや骨董的というべきワープロ・データーだから、原稿そのものを書き起こすことになり、同時に加筆手直しを行なうとなると、構想25年などと陳腐に気取っている場合ではないのだ。
かくて新電子本『凄い男』をスタートさせたが、既存の4作品の加筆&書き起こしに2ヶ月、加える書き下ろしに1ヶ月ほどを要し、さらに表紙づくりと作業がつづいた。
表紙づくりは以前に紹介してあるが、そのとき撮ったお面の写真を、例によってフリーの写真編集ソフト「JTrim」で加工する。この作業はなかなか楽しいもので、あれやこれやとテストをくり返し、ついつい時間を費やしたりもする。
さらに行なう校正や電子データー作成は、一転して辛気くさい作業だ。このあたりがセルフパブリッシングをすべて一人でこなす場合の面倒なところで、ただ小説を書けばよかったころとは大いにちがう。
ちなみに農家が生産した野菜や果物を加工し、販売まで手がけるのを「農家の6次産業化」と呼んだりするが、電子書籍のセルフパブリッシングもこれに似たようなものだろうか。