それ以後

P1240358 応募した作品が授賞して小説家デビューをはたしてホッとしていると、こう言われることが多い。
「次作は続編を……」
 これは担当編集者のきまり文句のようなもので、もちろん新人作家としたら否応もないものだ。はい、わかりました、とうなずいてしまうのだが、こうして小説書きとしての産みの苦しみをはじめて味わうことになる。

 それ以前、つまりデビュー以前にも、当然小説は書いていた。私の場合、書いて書いて書きまくっていた、といったほうが正確で、書いては応募、書き直しては応募の日々。それこそ手当たりしだいで、すべて記憶しているわけではないが、30回ぐらいの応募はまちがいない。
 あまりの落選つづきに、やはり書き方のイロハを習うべきか、と思い立って小説教室に通ったことは別の話だが、応募したなかで4作品が最終候補作にのこり、2つの作品が授賞できた。言ってみれば30戦26敗2引き分け2勝ということになるが、これが好成績なのかどうかわからない。すくなくとも幸運だったといまでは思っている。

 そうしたころは書いても書いても次の作品が思いうかんだものだし、思いうかべるくらいだからある種の予備知識があり、書くべきとっかかりが、すでに頭の中に出来ていたように思う。ところが「続編を……」となるとそうはいかない。まっ暗闇の手探り状態。頼りになるのは第一作ということで、となれば当然のことに「それ以後」を求めて調べまくることになる。

 坂本龍馬を書くため高知市におもむいた高名な作家は、市中すべての古本屋を呼びよせ、買い集めたトラック1台(貨車1両とも)の資史料を書斎に送らせた。はたまたある作家は、切支丹史料を探しに神田神保町の古本屋を訪れたさい、必要な史料を購入したあと、ふと考えて「棚にある史料のすべてを購入」。これで他の人が書けなくなるからゆっくり執筆できると考えた。
 そんな話がまことしやかに語られているが、乗用車1台分にちかいわが身の古本漁りぶりを思い起こせば身につまされるし、あってもふしぎじゃないと思われてくる。

P1240333 なんにしても第一作『本多の狐』は、主人公が吉利支丹とともに天草に向かって終わった。その続編となれば、島原の乱から調べるのが順当だったろうが、なぜか遠く離れた東北仙台を舞台とした「それ以後」になっている。どこでどうなってそんな物語になったか、いまとなってはまるで覚えていない。
 ただ「あとがき」に、三万余の信徒が死んだ島原の乱は、ローマ法王庁において殉教と認められていないこと。さらに乱終結の翌年から翌々年、仙台領大籠村で信徒処刑が起こっていて、これを東洋キリスト教最大の殉教とされたことに書きふれている。おそらくこの史実に触発されて考えついたのだろう。

 そう言えば仙台藩の重臣片倉家の一人として登場する片倉久米介は、おどろいたことに真田信繁(幸村)の遺児とされている。むろん大坂落城のさい、片倉家当主が養育を託されたという史実があってのことで、それを書いた当時は、いわゆる意外史に属したものだった。それがいまとなってはネットに多くの記述があり、簡単に参照できるのがまたおどろきだが、今年の大河ドラマ「真田丸」で片倉久米介のエピソードが語られるかはわからない。