日光口の戦いと馬塚の改修

 玄関に上る階段脇にちょっとした土の盛り上がりがある。土地を購入した原野のころから存在したもので、元の地主さんの話によれば、
「戊辰戦争で傷ついた馬の骨が埋まっている」
 とのことだからやたら古い話だ。

 江戸城の無血開城に伴い、多くの幕臣が江戸を脱出した。幕府陸軍の精鋭・伝習隊を率いた大鳥圭介は、開城の日に江戸を抜け出すと各地を転戦、下野の小山、宇都宮を経て、日光に向かった。

 徳川家康の葬地としての日光山は、戦略的にさほど重要ではなかったが、東照宮に秘匿された金塊が目的だった、という話がある。豪華きわまりない東照宮では、修理に使うための純金を常時用意していた。彫刻に貼りつける金箔のほか、階段の踏み板や手すり金具用の金の延べ板が大量に用意してあるとされていたのだ。

「しかし、金の延べ板などなかったのです」
 と、東照宮文庫長だったころの高藤晴俊氏から聞いたことがある。
「なにしろ多くの参詣人が行き来します。純金を階段に貼りつけるのではすり減りやすい。そこで純金と同じような輝きがあり、固くてより丈夫な金属を購入することにした。なにしろ長崎渡りの原料からつくる貴重な品物、同じ重さの純金をもって購ったと記録されています。ええ、それは真鍮(しんちゅう)だったのです」

 江戸初期には貴重だった真鍮(銅と亜鉛の合金)も時代が下った幕末には、煙管の雁首につかわれるほど普及している。軍資金が目当てだった大鳥圭介は目論見が大いに外れ、追ってきた官軍の板垣退助にしてもあえて東照宮を占拠するまでもない。

 東照宮焼失を防いだ美談の陰には、そうした理由が隠れていたのかもしれず、大鳥軍が東照宮を退くのを待った板垣軍は、日光口とされる今市宿で戦った。わが家から4キロほど離れた場所だったのである。

 馬の骨が埋められたあたりに二つの石が置かれていたが、いまでは八つに増えている。東京から連れてきた犬2匹、ヤギ3頭、居候の三毛猫の遺骨の一部や遺品を埋め、花壇として整備しておいた。

 太いクリ丸太を埋め込んで上部にガーデン灯を造りつけ、アプローチとの境には細いクリ丸太を柵がわりにしておいたが、20数年が経てば、さすがのクリ材にも腐りが入る。

 太さのあるガーデン灯のクリ柱は、いますこし持ちそうだが、クリ柵の地中部はほとんど腐り果てている。これをすべて撤去し、花壇代わりの丸めたアゼ板も取り去った。斜面なりに土を均したあと、石をならべてアプローチとの境とした。

 石の際にはエリゲロンを植えつけた。キク科の耐寒性宿根草で、2㎝ほどの小さな白、ピンクの花をつけるため「源平小菊」との和名がある。とにかく丈夫で、しかも5月から11月頃までつぎつぎと花を咲かせるのがいい。ちなみに植えた苗は、3ヶ月ほど前に挿し木していたもので、このあたりもひどくお気に入りだ。

 その上の斜面にはイワダレソウを貼りつける。これまた挿し木で増やしたもので、長くなったランナー部分を水稲育苗箱にならべ、ところどころに土を入れて固定してある。

 これだけで根付いてはいるが、まだ2ヶ月ほどしか経っていないので、いわゆるマット状ほどには育ち切っていない。そこで同じ箱を被せてひっくり返し、根が上になったものを斜面に被せた。こうして貼りつけたあと足で踏みつけて転圧、水やりをすませておいた。

 残りの部分に、.同じく挿し木したポット苗を植え付けたが、既存の芝(センチピート)との重なりがどうなるかは、来年、十分成長するのを待たねばならない。