プロフィール

 

羽太雄平の略歴
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 1944年に台湾で生まれ、東京で育つ。都立港工業高校在学中に写真にとりつかれ、数年修業したのちスチールカメラマンとして独立。おもに広告制作にたずさわり、ついで広告制作会社経営に手を染めたが、昭和最後の年に東京を脱出して、日光市南部の山間部で田舎暮らしをはじめる。以来ログハウスづくり、家具づくり、家庭菜園や薪割りの合間に小説を書く。1989年『完全なる凶器』で第13回小説CLUB新人賞、1991年『本多の狐』で第2回時代小説大賞を受賞。

 こうした経歴というものを幾度となく書いてきたが、しっくりきた覚えは一度もない。自分の来し方を棚にあげて、いつもそう思うのだ。
 小説家を生業としているのであれば、なにより小説を書きはじめた理由を書かねばならないはずだが、そこのあたりに踏み込むのがどうにも気乗りしない。ふと思いついて古い一文を読み返してみたが、なぜ小説にのめりこんだかについては「ボク自身でもよく分かっていない」などと書いてある。

 気恥ずかしさが先に立つせいかもしれないが、おそらく書き触れたくなかったのだろう。私にはそうした性癖がある。自分自身の古傷や不都合な事柄はもちろん、周囲が嫌がることにはなるべく手を出さない、書かない、話さないと決めている。それは傷口に塩を塗りつけるようなもので、うっかりしゃべったり書いたりして自分を痛めつけ、人を傷つけた記憶が何度もあるからだ。

 どんな不都合だったかはむろん言えない。したがって「赤裸々に書く」なんてことは、当然のように私には出来ない。このあたりが小説家として中途半端なところだろう、と思ったりもするが、反省するつもりはさらさらない。
 もし体験をあからさまに書いてしまえば、その後に巻き起こるごたごたが思いやられるわけで、より良い小説を手に入れるためだけに、そんな七面倒くさい事柄に巻き込まれるのは金輪際ごめんなのだ。もともと田舎暮らしは、さまざまな厄介ごとから逃れる手段だったのだから……。

 しかしながら、それでは略歴にもなっていない。せめて小説修業の経緯ぐらいは書き記せ、とおっしゃるむきもあろう。そこで前述した古い一文の所在を明らかにしてお茶を濁そうかと考えた。恩師・山村正夫氏の著作『わが懐旧のイタ・セクスアリス』に寄稿した『わがバブルの清算のころ』にある一節である。

 同書は、故山村正夫氏の作家生活50周年を記念して発行された著作で、小説教室を開いていた山村氏の門下生や関係者17人が、それぞれ興味ぶかいエッセイを寄稿している。表紙の帯に「創作欲と性欲は比例する」とある通りの快(怪)書だが、つづいて「ミステリー界の重鎮が赤裸々に綴る性の遍歴…」と書いてある、とここに至って気がついてしまい、それでないと作家生活50周年は迎えられないぞ、と山村氏に叱られた気分になっているところだ。わが懐旧のイタ・セクスアリス帯